江川卓はかつてプロ野球を盛り上げた

江川卓といえば、よくも悪くもプロ野球界を騒がせた人、といっていいでしょう。1977年のドラフト会議で、クラウン(現:西武)からドラフト一位指名を受けた彼は入団を拒否、一年浪人して意中の巨人入団を待ちますが、巨人がドラフト会議前日の「一日の空白」を利用して入団発表、それが無効となり、不服の巨人はドラフト会議をボイコット、彼は阪神より指名を受けることになります。

結局は、小林繁のトレードということで落ち着きますが、小林が阪神に移籍して22勝、しかも巨人戦は無敗という「ヒーロー扱い」されたに比べ、「悪役」巨人・江川は5月までの出場停止も響き、ルーキーの年は9勝どまりでした。しかし、翌1980年は16勝で最多勝、1981年は20勝6敗の好成績で連続最多勝、リーグ優勝に貢献します。
しかし彼の全盛期はここまでで、1982年になると肝心なところでの被本塁打が目立ち、この年は優勝を逃してしまいます。1983年からは成績が低下し、結局1987年、わずか9年のプロ生活で野球界から引退することになります。通算勝利数は135。もしプロ野球入団がもう少し早ければ、という気もします。そんな彼の記憶に残るプレイは1984年のオールスター戦。8連続三振をとり、あと一人で江夏豊の記録に並ぶところでしたが最終打者はセカンドゴロ。「振り逃げにして10人連続を狙った」という噂もありますが、江川らしいです。
マサカリ投法をプロ野球で使った有名人

プロ野球の歴史のなかで、農工機具の名前を冠した技の名を持っているのは「マサカリ投法」の村田兆治だけです。村田兆治投手はドラフト1位指名後、1968年のプロ野球デビューから、一貫してロッテで先発投手として活躍しました。
活躍して何年か経ち、酷使からひじを痛め、投手にひじの手術はタブーといわれた当時に左の腱を右の腱に移植するという手術を敢行、1985年、見事カムバック賞を受賞するまでの活躍をしました。この手術はスポーツ医学の権威、フランク・ジョーブの執刀で行われ、その後、他の有名投手が行うほど有効な治療法として認知されることになります。
マサカリ投法は金田正一監督のアドバイスで始めたといわれ、プレート上で踏ん張った右足の足首付近まで右腕をおろし、そのあと急速に上体をあげ、瞬間的にバッターに向けて右腕を振り下ろす2段階的な投げ方が、マサカリを振り下ろす動作に似ていることから付いた名前です。
スピードボールが持ち味の村田兆治投手は、その後フォークボールもマスター。その独特の投法も相まって三振を多く奪いました。また晩年は、中6日で投げることが多く、それも決まって日曜日の先発が多かったため「サンデー兆治」のニックネームも持った投手です。2005年野球殿堂入りを果たした名選手です。
エース投手と4番バッター

江川投手や村田投手のように、チームの運命を握っていた選手が各チームにはいます。エース投手と4番バッターは特にチームの勝敗を決定づけるような活躍が期待されています。チーム関係者も期待していますが、多くのファンも期待しています。

現代のプロ野球界、海外のメジャーリーグで活躍している選手は多数います。その中でも、ダルビッシュ投手や田中投手は、メジャーでも開幕投手を任されるほどです。
下記に「プロ野球 エース投手の条件 四番打者の条件」というページがありましたので読んでみてください。
http://www.proyakyuyobandasya.info/
二刀流の大谷選手は、エースとしても主軸としてもチームの中心です。2017年のペナントレースは、怪我の影響で出遅れてしまったことが残念です。